伯父の軍歴

  伯父輝雄の軍歴をやっとまとめた。

父只次(明治22年10月20日生)、母ジウ(明治28年10月27日生)のもとに、大正8年1月3日出生。

高等小学校を出て材木店に勤める。(14歳?)
相貌特徴として「後頭部一面小ナル痘痕無数アリ」とある。

昭和14年12月1日、20歳で佐世保海兵団に入団。
昭和15年4月29日~昭和16年6月10日まで、「飛竜」、第一通信隊、海軍工機学校など所轄を変遷し、昭和16年6月14日第24駆逐艦隊「山風」に乗船する。
昭和16年12月~17年4月28日まで、パラオ、レガスピ、ラモン、タラカンスターリング湾、ケマ沖、スラバヤ、パナイ島などフィリピン、インドネシア近海で多くの作戦に従事した。
昭和17年5月27日~6月17日、警戒部隊としてMI 、 AL作戦に従事とあるが、このMI作戦がミッドウェー諸島攻略作戦で、AL作戦はMI作戦の陽動作戦としてのアリューシャン列島攻略作戦を意味している。

そしてこの作戦の6日後、昭和17年6月23日「山風」は油槽船護衛任務終了後大湊より、単独で連合艦隊の停泊地岩国沖の柱島に向かう途中、房総半島沖にて午後8時米潜水艦ノーチラスの電撃を受け轟沈、227名乗組員全員戦死、輝雄23歳5ヶ月だった。
母(ジウ)に宛てた最後の手紙(以前本ブログでも紹介したことがある)は11月6日の日付から、レガスピー攻略作戦に向かう少し前に書かれたものだった。
文面からは死の予感がただよう。

余談だが、輝雄が戦死した昭和17年、只次とジウは2人の娘(長女・次女)を嫁がせたり、養女に出し、家には長男と三女だけを残している。
なぜ5人の子供の3人までを同じ年に手放すことをしたのか?
亡くなった輝雄は別として娘2人との別れは単なる偶然か?
母親である私には理解しかねるところだが、今となっては知る術もない。
軍歴を取るために、祖父の改製原戸籍謄本なども取り寄せたので、このような事実もわかったが、知らないことが多くあった。

「山風」の沈没地点は資料により異なっている。
ア、青森県尻屋崎北東海面
イ、北緯34°34′  東経140°26′
ウ、房総半島沖
エ、本州北東海面

などいろいろだが、私はイ、ウ辺りが正解かなと思っている。
イは米側が測定した数値かもしれない。

確認できたのはミッドウェー海戦に関わっていたことと、南京虐殺には関わっていなかったこと。
今年の6月で伯父が亡くなって77年になる。
伯父のすぐ下の妹は4月で97歳を迎える。
夏の墓参の折に、このまとめを持っていくつもりだが、もう会話は成り立たなくなっている。
私の作業が遅すぎた。(2019. 3. 7 作成)

イメージ 1 伯父輝雄


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                                           佐世保東山海軍墓地の第24駆逐隊慰霊碑