色川大吉氏追悼

※ 手元に1975年日本放送出版協会発行の「歴史の視点」下巻があり、小木新造氏との対談が載っている。

色川大吉氏の発言だけを取り上げて以下に引用したい。

最近、八王子のある遊女の置屋でこういう大福帳を見つけたのです。その大福帳は、八・一五前後の芸妓、娼婦が客をとらされた詳しい帳簿なんですが、それを見ますと、敗戦直後から進駐してきたアメリカ占領軍が、日本人の良家の婦女子に暴行しては困るから、おまえたちは日本のために耐えてほしいというわけで、一人の娼妓に日に三、四十人もの米兵の客をとらせていたことがわかった。その直前までは、日本の陸軍やお役人やらの客をとらされていたのです。戦争中は日本軍には慰安婦部隊なんて変な部隊があって、何万という底辺の女性や朝鮮人の婦女が犠牲に供されていた。敗戦によって、この婦人たちはどうなったかというと、ほとんど打ち棄てられてしまった。棄民になってしまったのです。それどころではありません。敗戦直後の八月十八日、警視庁保安課は花柳業者の代表を召集して「進駐軍特殊慰安施設」の設置を協議しているのです。この実行は内務省警保局長の名で指令されています。

 そうすると、八・一五というのは彼女らにとって何であったのか、敗戦前も敗戦後も、結局世の中のすべてのひどいことは、この人たちに押しつけられた。八・一五は開放でも断絶でも希望でもなかった。こういう最底辺の棄民たちにとっては、いわゆる「八・一五」はなかったのですね。

 八月二日の八王子の大空襲のとき、市民が家財道具をもってほとんど逃げてしまったときに、焼跡のなかに転がっていた重病人とか死者を誰が助けて運んでくれたかというと、この廓の娼婦たちだったと故村野廉一博士が証言していました。当日、村野先生は東京都の嘱託医師としてその場にいあわせたのです。こういうことをあげますと、敗戦体験を考える視点も、最底辺から最頂点の天皇まで、社会の垂直構造に応じてさまざまであったと痛感されるのです。

この引用は色川氏の考える視点がよく現れている。

こういう視点をもつ人を失ったことは哀しい。