Sardine

☆ 鰯は節分の季節の人気食材だが、このころになると毎年学生時代の下宿生活を思い出す。
この話も以前書いた気がするが、いいだろう。

セメントの廊下を挟んで南北に3部屋ずつ2F建てが2棟で、計24部屋があった。
大家さんは老夫婦で、節分の頃になると毎年鰯(煮干しだったと記憶する)と柊を玄関の入口に取り付けて、邪気を払ってくれた。
私が住んでいたのは北棟2F北側真中の部屋で、窓からは交差点の向こうに護国神社の鳥居が見えた。
老夫婦はとても良い人たちだった。
当時は敷金も礼金もまるで必要なく、部屋代は¥4500だった。
1年生の12月、それまで住んでいた寮で○○荘の部屋が来月空くという話を聞いて、1月に引っ越した。
4・5畳の畳敷きで、半畳ずつの玄関・押し入れ・流しがあった。つまり占有スペースは全部で6畳ということだ。
部屋の隅の柱にベルがあり、これが鳴ると電話の知らせで、大家さんの家に走っていく。
卒業まで3年余りお世話になったが、私が4年生のときおじいさんが亡くなった。

下宿の前の道路を挟んで向かい側に、大学の某先生のお宅があった。その空き部屋を借りて「○○近代史文庫」事務所があり、毎週火曜日夜「若手学習会」が開かれ、テキストは家永三郎さんの「高校日本史」だった。
明治維新から始め、毎回輪番でチューターがレジメを用意し発表してゆく。
私たち学生をはじめ、高校教師・市役所職員など毎週集まるメンバーは7~8名だった。
ここでの活動はサークル活動以上に、忘れられないものとなっている。
その若手メンバーの代表的存在だったY君も50代の若さで逝った。


☆ 行方不明の上の姉の戸籍を辿り附表が得られたので、その宛先にはがきを出した。
これが宛先不明で戻ってくれば、これ以上どうしようもない行方不明で、ここに住んでいればなんらかの連絡があるはずなので、それを待つ現状だ。


☆ 朝から支所へ出向き、母の医療・介護合算制度の請求や後期高齢者医療保険料の過払返金書類などの手続きを済ませた。