『遠い声』 瀬戸内寂聴全集6 新潮社
★ 中秋の名月は明後日だそうだが、台風襲来で見るなら今夜だと先ほどのニュースで言っていた。
今夜はよく晴れているのできれいに見られる。
★ 金子文子を扱った『余白の春』に続いて、管野野須賀子を扱った『遠い声』を読んだ。
著者45歳のときの作品とあるので、晴美時代だ。
すでに須賀子らの処刑から50年が過ぎていたが。
小説の中で須賀子は言う。
国家は私たちに極悪非道の大逆罪人というレッテルをはりつけたが、真の意味での極悪人は、あれほど歴然と無実が立証されている人々の上にも無実の罪をでっちあげ、かくも大量な殺人を行う裁判官であり、それをさせた背後の政府の要人たちであり、更に彼等にその横暴を行わせ平然としている人である。彼等こそ、天も神も怖れぬ人々でなくて何であろう。
これだけは、死んでも私は地下から叫びつづけたい。七度生れ変って、このことだけは叫びつづけたい。彼等は無実で殺されたのだと。
たしかに今度の恐怖裁判で、単純で無知な国民の大多数は脅え上っただろうし、この先何年かは、いっそう社会主義者たちは鳴りをひそめなくてはならなくなるだろう。しかし、私は歴史は生きて動いていくことを信じる。この非常識で無法な裁判の残虐の爪を身に受けた今でさえも私はそれを信じる。それは信仰ではない。もっと科学的な、秋水がよく話してくれた唯物論の哲学から割りだした信念である。
三十年後、五十年後、いや、迷信深い日本人のことだから、もしかしたら百年も後になって、人々は私たちの刑死を再検討し、罪名を書き直してくれるだろう。
・・・けれども今はもう、忠雄には許してもらおう。彼こそはこの事件の栄光を、いつの世か、五十年先、百年先で、私とただふたりわけあうべき人間になるだろう。歴史が幸徳秋水の名をとどめる限り、人々はその両脇に脇侍のように管野須賀子と新村忠雄の名を記憶しつづけるであろう。
彼等が処刑されてから100年が過ぎた。
昨年だったか、名誉回復が進みつつあることを報じたドキュメンタリーの番組を見た。
しかし、本当の意味での名誉回復を目指すには、天皇制にまつわるベールを剥さねばならない。
残念ながら、まだまだ日本には天皇を利用したい勢力が幅を利かせている。