One and a half months when my second son experienced it.

☆ 昨夜次男は職場へ戻った。
幼い頃からの友人の突然の訃報を知ってから、その弔問を終えるまでに(亡くなってからは4ヶ月が経っていた)、ひと月半を費やした。
 
その死が公表されてなかったために、確認作業にひと月を要した。
最終的にはお墓がどこにあるのかを調べ、俗名・死亡年月日・享年を見たとき、事実だったことがわかった。
 
遺族にとっては他人に知られたくない死もある。
次男にとってはまず弔問を受け入れてもらえるかどうかが最大の気がかりだっただろう。
これまで祖父母の死など身近な死を経験してはいるが、いずれも高齢での自然死で、遺族も自然に受け入れた。
知己のある人の死では、おそらく今回が最も心に重く受け止めた、『死』だったことだろう。
 
このひと月半でいろいろなことを考えたに違いない。
自分の命が自分だけのものではないこと。
葬儀とはなにか。 (この世を去るとき、関わりあった人たちにどう別れをすればよいのか。)
『死』 『生』 について。
このひと月半は、これからもこのようなことを考えていくきっかけになったことだろう。
 
 
☆ 10日付新聞の片隅に、大江健三郎鎌田慧らが呼びかけた脱原発集会が9日明治公園で開かれたとの記事があった。
今日はあの日から2年、この記事の扱いの軽さが心配で仕方ない。
 
同じ日の記事に、和歌山毒カレー事件について。
林死刑囚自宅台所にあったポリ容器と現場の紙コップに付着した亜ヒ酸の鑑定結果について、組成が異なると発表。 「別物であることが証明されれば再審に近づく」と安田弁護士のコメント。