屋嶋城&四国村&しまね丸マスト

★ 一昨日友人を誘い屋嶋城に出かけた。
長期間クレーンが置かれ整備が続いていたが、今春完成し一般公開されている。

「屋嶋城」とは7c後半、日本と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に大敗した白村江の戦の後、大和朝廷が危機感から西日本各地に造った山城のひとつだ。
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城門地区の懸門(けんもん)構造。
懸門構造とは、門の入り口に高い段差を設け、通常は梯子を架け戦時には取り外す仕組みをいう。


★ 次は屋島ドライブウェイ入り口にある四国村へ。
ここは徳島のかずら橋や小豆島の農村歌舞伎舞台、四国各県や兵庫県から移築・復元した古民家などが展示されている屋外博物館だ。
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農村歌舞伎舞台で、右手は階段状に造られた桟敷席。


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これは1945.2.29川崎重工で竣工した民間商船しまね丸の無線マストの1本。(鴨庄白方地区で警鐘台として利用されていた)
しまね丸は戦時標準油槽船を改造し簡易型空母となったが、3.17の神戸空襲時神戸港で米軍機の爆撃を受けた。戦局悪化のため実際の任務に就くことなく、応急修理後4月初旬より志度湾に疎開した。
甲板は植木や迷彩などで偽装したが、1945.7.24イギリス海軍艦載機により被弾。1948年解体のため引き揚げられ、地元の警鐘台として活用された。下部は被弾によりめくれたり、えぐられた鋼材が見える。
しまね丸甲板を松の木で偽装した作業は村人総出で行われ、食糧難にもかかわらず参加者には白米が配られたという。(毎日新聞 2016.7.78付)


★ こちらは今も鴨庄新開地区に建つ2本目のマスト(警鐘台)。
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新開地区から大串地区に向かう県道135号線沿線に立てられたしまね丸についての説明板。
ガードレールの外側に立っている。
志度湾にしまね丸が疎開した4月初旬から、周辺は機銃攻撃や機雷投下が続き、住民は農作業もままならなかった。7月27日しまね丸は沈没したが、水深が浅いため海中に没しなかった。船体が見えるから終戦までの5か月間近く住民は連合国軍機に怯えた。