大洲

★ 宇和島から大洲へ移動し一泊、翌午前大洲を歩いた。

イメージ 1
朝の大洲の街並み、水路には錦鯉がゆったりと泳いでいた。


イメージ 2
レトロなポコペン横丁は開店準備中。


イメージ 3
左手の天守は明治時代取り壊されてたものを2004年に復元したもの。
右手の台所櫓(1857年の地震で大破していたのを1859年に再建)が入り口になっている。


イメージ 4
天守から見た肱川と大洲の町。

イメージ 5
天守屋根の断面図。
こういう構造がわかるのは面白い。

大洲城は『姜沆(かんはん)』という朝鮮からの儒学者が幽閉されていたところだという。
姜沆は秀吉の朝鮮侵略藤堂高虎の軍に捕らえられ、3年間日本で虜囚となった。
その初めの10ヶ月間、大洲城で囚われていた。
大洲からの脱出を図り、その逃亡のさなかに藤堂高虎が築城中の板島城(宇和島城)に倭人批判の貼り紙をする。
内容はもちろん日本への憎悪に満ちたものだった。
命を失うことを覚悟の貼り紙に込めたものは、この貼り紙によって倭人が万に一つでも悟るところがあればとの思いからだという。
姜沆は日本での体験を書き溜めた記録を「看羊録」という書物に著した。
この文献は1984年に完全日本語訳がでたそうだ。
当時の日本を外から、侵略の被害者から見た記録として、現在の日本人にこそ読まれなければならない書物だろう。
大洲市民会館の事務所前に、姜沆を顕彰する碑が建てられているという。
残念ながら姜沆を知ったのは大洲を後にしてからで、見ていない。
(姜沆については--風の散歩道vol.7姜沆碑 大早直美著―を参考にした。 )


城を後にし「臥龍山荘」へ。
イメージ 6
臥龍山荘は明治期の豪商が建てた3つの建物と庭からなり、この写真は一番奥の「不老庵」という建物。障子の向こうに見えているのは肱川で、庵は川べりに突き出すように建っており、京都清水寺のように木の脚が組まれ縁を支えている。
天井の網代張りはこの日、水面に反射した太陽がゆらいでいた。
夜は月光をひろうそうな。

イメージ 7
逆光で判りにくいが、裏に回ると槙の生木が屋根から出たげを支えている。
こういうのを「捨て柱」というそうだ。
木は上に伸びられないので横に成長している。

大洲は実に美しい町だった。