満洲開拓団

☆ 3姉妹の次女は4歳のとき父母に連れられ、長野から満洲に渡った。(1940年)
第一回目のドキュメンタリーは、この次女をメインに描かれていた。
 
戦争を挟んで生き延びた次女(姉)と三女(妹)はそれぞれ中国人の夫をもち、妹は夫の定年を契機に家族で日本へ永住帰国することを決意した。(2000年)
乳飲み子のとき満洲に渡った妹はもちろん、中国人の夫、中国で生まれた二人の息子たちとその連れ合いたち、みなが妻や母の帰国の願いを応援し、支えた。
 
日本で暮らし始めた妹は中国にいる姉に、手紙を出し続ける。
2009年姉はついに夫と共に、日本で暮らすことを決意する。
 
第一回目のドキュメンタリーはここまでで、今回第二回目の続編はこの二人の日本人姉妹の夫たちに視点を当てたものだった。
老いを迎えて、妻の願いをかなえるために他の一切を捨てて、異国での暮らしを決意する夫たち。
70歳半ばで日本語を習い、病を抱え、家庭菜園に精を出す。
 
父親の出征後、3姉妹の長女は結核で亡くなり、次女は中国人夫婦にもらわれ、三女と母は中国人農家にもらわれていき、残った姉妹はいっしょに育っていない。
 
ベトナムのドクさんは、母や姉と共に暮らしてこなかったから情が湧かないのはやむを得ないという。
しかし、この姉妹の妹は姉とともに暮らしてない上、満洲からの逃避行の際姉が「歩けないこの子を捨てろ!」と母に言うのを記憶している。
それでも姉を思い続け、日本への帰国を決意させた。
 
「延安の娘」では捨てられた娘が、北京に住む父を探し出し会いに行く。
 
肉親の情はともに暮らす中でしか生まれないというのは間違いだ。
 
 
☆ 昨年夏夫がとってきた鰻を庭の池に放してあったが、今朝池の縁に出ていた。
夫は甲羅干しをしているのだろうという。
実際は餌をやってないのに一年間生き延びた鰻は藻を食べていたようで、その藻を食べつくした結果水中の酸素がなくなり、呼吸が苦しくなったようすだった。
夫は4㎥はありそうな池の水をバケツで掻い出し、水替えをした。
この作業に疲れたのか、今日の午後は碁に出かけなかった。