たづら古道散策

★ 3月以来、私の体調不良や8月の旅行などが重なり、定例登山は5か月ほど休んでいた。
長期間のブランクがあり、低山でも山歩きには不安があったので、古道を歩こうと調べた。
観光協会生涯学習課・図書館などで資料を集め、「たづら古道」を中心に散策することにした。

調べる中で、王子橋・お梅茶屋・王子橋周辺の史跡(王子権現・鴻池さん)や王子橋の馬頭観音・北地の石橋地蔵尊などを確認する必要があり、現地へは3度下調べに行った。

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たづら古道はさぬき市大川町田面を東西に走る全長2.3kmの長さがあり、奈良時代都と各地を結んだ南海道の一部とされる。 弘法大師善通寺から都に渡った時や源義経が平家を追って屋島に向かったときに通ったと伝えられている。 田面はこの街道沿いに宿場町として栄えたという。 

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古道沿いの不動明王

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ご詠歌が掲げられた地蔵。

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旧街道の王子橋から少し西にある「お梅茶屋」があった位置にあるマルミヤ洋品店(今は営業されてない様子)。
――お梅茶屋とは、寛政年間頃南海道の宿場町として栄えた田面峠の王子が渕の通りに面して中屋という茶屋があった。向かいには角屋があり、地形から中屋を上ん(うえん)茶屋、角屋を下ん(したん)茶屋と呼んだ。上ん茶屋の名物女将がお梅さんでした。
お梅さんの名を一躍有名にしたのは、ある夏の夕方の出来事でした。泊り客の一人が中庭で盥にお湯を張り、行水をしていると夕立が来た。客がさあ大変と困っていると、お梅さんが駆け付け、あれれと言うまに、客を盥ごと持ち上げて宿の中に運んだ。
その怪力ぶりが人の口端に上り、お梅さんの名は国中に知れ渡った。
お梅さんは力だけでなく、侠気にあふれ、曲がったことが大嫌いという性格だったようだ。おかげで中屋の付近には悪党どもが近寄らなかったとも記されている。――

王子橋の東端には三面六臂(頭が3つに手が6本)の馬頭観音(頭の上に馬の顔が彫られている)が祀られている。この石柱には当時の橋が安政4年(1857)に作られ、馬頭観音が慶応4年(1868)に彫られたとある。
王子橋近くに「鴻池さん」と呼ばれる小さな祠がある。――津田川の支流本村川が大きく蛇行する権現さんの裾にある。ここは伝説の田面次郎池の堤であったと言われている。「田面次郎池は昔、讃岐の満濃池に次ぐほどの大池であったが、よく決壊した。そこで、決壊防止のために通りすがりの母子を堤防の人柱とした。以後、堤防が決壊することもなくなった。」との伝説が残り、鴻池さんは二人の供養のために造られたものであると語り継がれている。――
  (なつかしの写真集 ふるさとの原風景 さぬき市文化財保護協会大川支部刊 89p)

もう一つの仏は大川町富田東北地地区の石橋地蔵尊で、現在は昭和57年に竣工した鉄筋コンクリートの「じぞうはし」が架かっているが、その南護岸に4本の石柱橋が保存されている。
その北から2本目の石柱裏に地蔵尊が刻まれている。 膝をついて石柱裏を覗き確認した。昭和28年に一帯は大洪水に見舞われる台風が襲ったが、この石橋は異常がなかったという。

いろいろ散策し、帰りは牟礼道の駅でオリーブハマチの漬け丼を頂いた。
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 1:30と遅い昼食になったが、駐車場はほぼ満車状態で大勢の人だった。
いつもは山歩きなので山頂で記念撮影だが、きょうはいろいろ散策したので写真を撮るのをすっかり忘れており、昼食時の記念撮影となった。