映画 ②「カティンの森」

⭐ 昨夜この映画について書き始めたが、眠くて眠くて途中放棄し、朝になって再作業。
昼間、南庭の山茶花2本、コデマリ1本、柘植1本、裏庭の椿2本を剪定した。その疲れが出た様子。


⭐ さてこれは今回の3本の中で最も感動した作品。
2007年アンジェイ・ワイダ監督81歳の作品。
彼の父親もカティンの森の犠牲者で、映画化の構想は50年間温めたものだという。

一通り見終わってもわからないことが多く、webで調べた。
まず、なぜ将校がターゲットになったかということ。
当時のポーランドの徴兵法で、大卒知識人は全員予備役将校とされ、戦時には自動的にポーランド軍将校として召集されることになっていた。
ポーランド軍将校全員を捕虜にすれば、大卒ポーランド人全員を逮捕したことになり、将来ポーランドを再び植民地とする際に、真っ先に邪魔となる知識階級を根絶やしにする目的があったということだった。
(これはポルポトも同じだ)もちろん将校だけではなく、聖職者や学者なども。
戦車や飛行機はすぐに作れても、知識人は簡単に作れず、他国を蹂躙する側にとっては抵抗運動の温床になるこれらの人々は邪魔になる。
(今日本国の政治家や官僚に、日本を甦らせようという知識人が何人いるのか?)

作品の冒頭で、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだ後9月にドイツがポーランドに侵攻し、条約の秘密協定だったポーランド分割で、東からはソ連が侵攻し、ソ連の捕虜になっているポーランド将校の夫をクラクフから東へ向かって探しに行く妻と娘が描かれる。
ラストは1945年1月クラクフがドイツから解放され、妻が夫の遺品の手帳を受け取りその死を知る。
手帳には夫が捕虜になってからの克明な記録が記されていた。
つまり銃殺されたポーランド人将校にとって身近な人たちの4年4ヶ月が、作品に描かれている。

1943年春ドイツは一時的に占領していたカティン(スモレンスク近郊)で、多くのポーランド人将校の虐殺遺体を発見。(独ソ不可侵条約は10ヶ月でドイツにより破棄され、1941年6月ドイツはソ連に攻め込む)
1943年6月にはソ連軍がスモレンスクに迫り、カティンの調査委員会も引き上げを余儀なくされる。

1944年1月、カティンを取り戻したソ連が「1941年秋にドイツが虐殺した」との捏造報告書を発表する。
ドイツは虐殺事件の犯人としてソ連を非難し、ソ連はドイツ占領地だから犯人はドイツだと非難合戦。
ドイツ軍を追い出したソ連は事件の再調査を行ったが、戦争後はドイツは敗戦国なので何でもかんでも悪者にされる。
ユダヤ人を虐殺したナチスと大粛清をしたソ連共産党が、お互いを虐殺者だと非難し合う。
1945年、ポーランドソ連衛星国となったため、カティンの森事件の真相解明はタブーとなった。

ゴルバチョフ政権のもとで1990年、NKVD(内務人民委員部 のちのKGB)の犯行を示す機密文書が発見され、1990年4月3日タス通信は関与を公表し、同年ゴルバチョフ大統領が自国の犯行と認めポーランドに謝罪。

2010年4月10日、ポーランド主催のカティンの森追悼式典に参加予定だったポーランドレフ・カチンスキ大統領が搭乗した政府専用機が墜落し、乗員全員が死亡。
2011年には墜落事件追悼碑の碑文がロシア側により作りかえられ、記述が削除されるという不可思議な事件も起きている。

1943年、カティンの森のドイツの調査は徹底しており、一人一人の身元を確認し犠牲者を明らかにしていった。それゆえ将校の手帳や遺品も遺族の手元に届けられた。

映画では戦後のポーランドの悲劇もしっかりと描かれている。
例えば虐殺がドイツ軍によって起こされたと認め生き延びた中尉は、自責の念に堪えきれず拳銃自殺する。
カティンで殺された大将の未亡人は、夫がドイツ軍に虐殺されたという誓約書署名を拒否する。
カティンで兄を殺された妹は、カティンの犠牲者であることを墓石に刻み逮捕される。
(彼女はワルシャワ蜂起にも加わったことが描かれている)
また将校の妻の甥は、父親がカティンの犠牲者であることを履歴書に書き、書き直しを拒否し美術学校の入学を取り消される。

ソ連は、東部戦線でポーランド将校を虐殺し、西部戦線ではワルシャワ蜂起でドイツと戦わせ、ポーランドを潰してしまう。

独ソ戦ノモンハンでの戦争と関わりが深いが、長くなるのでまたの機会にする。

全く余談だが、アンジェイ・ワイダ監督は私の母と同年の生まれで誕生日もとても近い。