安藤正楽(1866~1953)について

⭐ 愛媛新聞サービスセンター発行の「風の散歩道」に、碑文が削られた『日露戦役紀年碑』の紹介があり、今年初夏愛媛の友人に案内してもらった。
四国中央市土居町藤原の八坂神社にそれはあり、文面は安藤正楽により書かれたものだった。
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碑文に書かれてあったのは
ーー由来戦争の非は世界の公論であるのに、事実は之に反し、戦は亦明日にも始まるのである。
嗚呼、之を如何にすればよいか。他なし、世界人類の為に忠君愛国の文字を滅するにあり、と予は思う。諸氏は抑此役に於いて如何の感を得て帰ったのであろふーー

碑が建てられたのは1907年3月だが、1910年の大逆事件の影響で正楽は捉えられ、文面は削り取られた。特に太字の部分が官憲の怒りを買った。
警察は記念碑を叩き壊せと命じたが、正楽は「あれは日露戦争で命をかけて戦った軍人が建てたもの、壊すことはならん。碑文が悪ければ、そこだけ削れ」と言った。
よくぞ残った。一字もない碑だからこそ、より深く感じ取れるものがある。

写真右手の少し覗いている碑は1993年、遺族が文面を刻み再建したもの。
削り取られて80年以上経っても、それを記憶としてしっかり遺そうとする人々に勇気づけられる。
これらは正楽を始め、藤原集落の人々、遺族、生きて帰ったかつての軍人たちの祈りと執念の賜物だ。

安藤正楽の成した仕事は幅広いが、春日井水道と呼ばれる上水道を完成させたことは大きい。
自らの結婚25年を祝う銀婚式記念として、1921年1月に上水道を引く決心をし、同年秋に完成させている。
正楽の住む根根見集落は石鎚連峰の東、赤星山の麓にあり30戸ほどの集落だったが、井戸を持たない家が多かった。地下30尺(約9m)から清水が出た時の正楽の喜び様は半端でなかった。
完成までにかかった費用は3062円で、今の価値にすると1200万~1900万円になる。
正楽は郷士の出だが、有り余るお金があったわけではなかろう。

阪神淡路大震災の折に、ある鉄工所を営む夫婦が一千万円の寄付を申し出た。
受付担当者は本当にいいのですかと何度も確認したが、コツコツと貯めたお金ですが私たちはなんとか年金で食べていけますからと言い、担当者は受け付けた。
この話は忘れられない。

私も今の所なんとか年金で食べていけるが、この先支給が大幅に減ると危うい。
それに心配なのは1980~85生まれの子供世代の年金だ。
ゆとりがあれば少しでも子供達に残してやりたい。
鉄工所夫婦や正楽の行いは、とても自分にはできない。

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安藤家のミカン畑の隅に残る春日井水道。


他には部落差別解消の運動、年号の基準であった皇紀の誤りを歴史的に正そうとした「紀念修正論」への取り組みや「日本古代史紀年論」なども興味深い。
紀元2600年を祝った石塔は非常によく見かける。
これは神武天皇即位(B.C660年)から2600年経ったことを祝って、戦争真っ只中の1940年に国を挙げて祝われた奉祝イベントだが、さぞかし高額な経費が必要だったことだろう。

全国の八幡神社応神天皇(210年~?)を祀ってあるそうだが、私はそれを知ってから神社で手を合わせることに違和感を感じている。

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この写真は、「郷土に生きた人びと」〈愛媛県〉近代史文庫編 静山社 40ページより引用したものだが、若い頃の正楽よりは私はこの晩年の写真の方が、彼らしいと気に入っている。