老いあれこれ

※ 今年、とみに感じた老い。
尿もれ、言葉・名前が出てこない、新幹線のホーム・号車・座席番号やホテルの部屋番号が覚えられない、息切れ、仕事の遅さ、下り階段で転びそうになる、などなど。
今年末の子供達の帰省からは、しっかり家の片付けをやってもらうつもりだ。
子供達よ!頼みますよ。


※ 廃木をもらうためにクリーンセンターへ週2回通っている。
運転が苦手な夫のハコバンを私が運転し、二人で積み込み、帰宅してからは夫が荷下ろしし、ストーブに入る大きさに切る。夫の手に余るサイズのものは、次男が帰省した時にチェーンソーを操作してもらう。
松葉や剪定した細い枝など、焚き付けに適した材もいろいろあるのでとても重宝している。
夫とは趣味が異なるし、夫婦の共同作業がほとんどないので、この薪拾いはいいことかもしれない。


※ 11/29、小雨の中を屋嶋城北嶺探検イベントに参加した。
屋嶋城は城門が復元整備されてから南嶺を訪れる人は増えただろうが、北嶺はあまり散策されていないように思える。
現在の屋島寺の前身となる寺院があったという「千間堂跡」は初めて訪れた。鑑真が建立し(754年)、その後空海が現在の地に(810年)。

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ロープが張られているが、小さなお堂であったことが想像される。

「遊鶴亭」は30年ぶりくらいだった。天候が悪いので何も見えず。
子供達が幼い日、ここで写真を撮っているので思い出した。
遊鶴亭は昭和天皇の皇后が名付けたそうだが、単に見晴らしの良い展望台だ。

もう一箇所、北嶺へ行く途中、「堀切」跡があるところを教えてもらったが、雨のため道から逸れることができず確認できなかった。
「堀切」とは防御のための建造物で、外敵の侵入防止のため繋ぎの部分を切断してあるという。

2時間ほどの散策だった。
帰りに寄るところが3ヶ所あったので、車の中で持参していたおにぎらずを頬張り、腹ごしらえする。
14時帰宅。

屋嶋城は全長7kmと言われている。
この他に奈良生駒に高安城対馬に金田城と、3つの城が667年に作られたと日本書紀に書かれているという。
これらの山城は朝鮮式山城と呼ばれ、いくつかの谷を取り込むように、山の峰や斜面に石塁または土塁を築きめぐらしており、9ヶ所ある。
対して、神籠石(こうごいし)系山城と呼ばれるものがあり、これは石垣で区画した列石遺跡となっており、西日本に16ヶ所ある。
愛媛の永納山も後者に入る。前者の朝鮮式山城9ヶ所は、7世紀半ばに築城され史書に名前もあるのに対し、後者の神籠石系山城16ヶ所は時期が不明で史書に名前もない。
ただ、神籠石は現在の国道に相当する「官道」との位置関係が深く、交通の重要拠点だったとの見方がある。官道の整備は7世紀後半なので、両山城は同時期とも考えられる。


※ 次男がネットオークションで買ったという工事用ライトとハンマーヘッドがこちらに送られてきた。
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こんなボロボロの品をオークションに出す方も出すほうだが、買う方も買う方で、いくらだったか知らないが、ライトは点くのか心配だ。
若い人たちはこんなものまで、売り買いしているのだ。
薪割り作業に使うのだろうが、ハンマーは何キロあるのか、とても重い。
次男が帰ってくるまで、これに関しては夫も私も何もできない。

次男は趣味が多く、やはりボロ自転車をネットで買い、部品を交換したり、磨いたり、塗料を塗りなおすなどして、新品を買ったほうがはるかに安くつくのに、労力もかけて作業するのが楽しい様子。