東京散策 その2

※ 八広から渋谷へ移動し、午後は「東電OL殺人事件」(佐野眞一著)を確認していく。

仕事を終えた泰子は東電本社のある新橋から銀座線に乗り、渋谷でおり、ここ109のトイレで夜の化粧を施し、いつもの場所(道玄坂地蔵)に向かった。
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泰子のルートを正確にたどりたいので、次は道玄坂上交番を目指すが、まずは腹ごしらえで、番外地百軒店でラーメンを食べる。この店は八重洲地下街にあったが、こちらに移転した由。味は合格点だ。
ただし、私はワカメをトッピングしたかったが、切らしているということでメンマにしたら、たくさん入っていたので全体の味がからく感じた。

交番を過ぎて右折し、道玄坂地蔵へ向かった。

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「三長」という大きな料亭の一角を削るようにして、地蔵はあった。
地蔵にはルージュが引かれているとあったが、確かに赤いペンキのようなものが唇に塗られていた。
とても綺麗に管理されていた。
彼女は天候にかかわらず毎夜ここに佇み、四人の客を取ることを自分に課し、5年間立ち続けた。

佐野が円山町の聞き取りをした老舗日本料理店「萬安」は無くなり、コーポになっていた。(青色の建物)

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焼き鳥の暖簾が見える店は日本料理店から引き継がれた何代目かが営んでいるのかもしれない。
佐野は2代目の女将平野とみから、岐阜の奥飛騨に作られた御母衣ダムによる水没で、円山町がホテル旅館業の街になったことを聞いた。

円山町には東急グループの創業者五島慶太、政治家の大平正芳らが足繁く通った。


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泰子は神泉駅12時34分発の下り終電車に乗り、杉並区永福の自宅に帰った。

東京に出かける前から、8割がた殺害現場の喜寿荘は無くなっているだろうと思っていたが、ほぼ21年前と同じ姿で残っていた。
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2階建木造モルタルアパート喜寿荘。
食事処まん福亭は半地下にある。
殺害現場は3段の鉄階段を上がった取り付きの部屋101号室で、入口ドアや右手の窓枠は当時とは違って付け替えられていた。現在も居住者がいることがわかる。

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神泉駅から撮った遠景。右手のコンクリートの建物が粕谷ビル。
15年間犯人とされたネパール人・ゴビンダさんは粕谷ビル401号室に住んでいた。

当時喜寿荘と粕谷ビルの管理を任されていた人物は、渋谷駅近くのネパール料理店カンティプールの店長だったが、カンティプールが入っていたビルに現在その店は無かった。