I came home safely.

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とにかく無事に予定より30時間余り遅れて帰国した。
旅の内容は全く整理できていないので、そのうち書いていくことにしよう。

15日に帰宅してからこの一週間はいろいろあった。
夫の父の7回忌を4/2にとり行う知らせが入っていたので、まずは母屋へ母の死亡報告はがきを届けに行き、夫の母の入院見舞も持参した。

16日、まだジェットラグで昼間もぼんやりしているとき、かつての人形劇の仲間の一人が大腸癌を患い進行しており、近々手術が必要と報告を受ける。
彼女の家は昨春家業が倒産し、この一年近くは本当に大変な日々だった。
心労が引き金になったのかとも思う。
この日は母の49日でもあり、近所周りにもお知らせのはがきを投函した。

17日、お悔みが届き始める。
断っても断りきれない。
しばらくおいて、香典返しの作業になるのだろう。

18日、夫に確定申告の添付資料を渡し、申告にいってもらう。これからは毎年夫本人にいってもらうことになる。6万円あまり還付されるようだ。

20日、母の実家と母の姉の家に死亡報告に行く。
実家のほうは、墓に納骨の依頼もし、軍人墓地の伯父の戦死場所も正しく房総半島沖に直してもらうようお願いし、双方の刻印費用を預けた。快く承諾してもらえてよかった。

今日21日、人形劇時代の友人2人が母に線香をあげに来てくれる。その話の途中、長く母と絶縁状態にあった大阪に暮らす母の妹から電話が入る。
母の実家から連絡が入り、わたしは子供のころから以来の会話となった。叔母は母より6歳若いので、今年78歳になるはずだ。
長年にわたる母との確執も死の訪れが解いてくれるのだろうか?


添付写真はプラハ・バーツラフ広場のヤン・パラフ(夫と同い年)慰霊碑。
プラハの春を圧殺したソ連に抗議して焼身自殺した。右は彼の死の1か月余のちに、同様に焼身自殺したヤン・ザイーツ。
日本から持参したろうそくと線香で慰霊する。