ロイ・ジェームス

毎日新聞に「タタール人の軌跡」が毎月連載されている。

9月にロイ・ジェームス(1929〜82年)紹介されていた。彼は60年代〜70年代に活躍したタレントだが、両親はロシア革命で日本に亡命したタタール人で熱心なムスリムだった。

ロイは流暢な日本語を話すといわれたが、日本生まれの日本育ちだから当たり前だ。

 

連載はロシア革命から極東に逃れたタタール人の100年を追ったもので興味深い。

永六輔(1933〜2016)はロイと同じ下町出身で、長野に疎開していたという共通点もあり、イスラム教の知識は全てロイから教わったという。

 

19c末から1950年代にかけて北東アジアに移住したタタール人のコミュニティで、「ミッリー・バイラク」という4ページの新聞が読まれていた。

アラビア文字で書かれ、1935年にカヤズ・イスハキー(1878〜1954)により旧満州奉天で創刊され、終戦までの10年間に約400号が出された。

1928年トルコでオスマン時代のアラビア語が禁止され、ラテン文字を導入する改革が行われた。日本初のコーランは1934年に出たが、その時使われたアラビア文字の活字はこの時余ったものをトルコから輸入し印刷に使ったという。

 

革命を逃れ日本に亡命してきたタタール人は、ほとんどが無国籍状態に置かれていた。

この無国籍状態に変化をもたらしたのは朝鮮戦争(50〜53年)だった。

トルコは米軍を中心とする国連軍に2万人超を派兵した。冷戦下で対ソ関係が悪化し、NATOへの加盟(52年に実現)が目的だったとされる。

米軍の後方支援基地だった日本は治療や休暇先としてトルコ軍の将兵を受け入れ、在日タタール人が支援した。

こうした交流がきっかけとなり、トルコ政府は53年タタール人にトルコ国籍の付与を認め、その結果タタール人の多くは日本からトルコに移り住んだ。

 

それにしてもロシア革命前後のロシアが描かれる映画・文学・ミュージカルetc、「屋根の上のバイオリン弾き」「ドクトル・ジバゴ」「ノモンハン事件」など、余命が足りない。