東京その3
※ 疲れも出てくる4日(月曜日)は10時半過ぎゆっくりとホテルをチェックアウトした。
ホテルでの食事は朝食も夕食もこんな感じで、バリ男のラーメンにもたれ気味のお腹にはちょうど良い。
この日は震災資料センターでの講演とその後のフィールドワークだ。
住吉駅から会場の江東区北砂に向かう途中、中華料理の大衆食堂を見つけ入った。
メインのおかずにもやしのナムルとスープがついている。
お腹が満たされ、穏やかな天気のもと、川沿いの道をゆっくり歩いた。
講演の前に何人かの挨拶があり、企画したたびせん担当者、かもがわ出版担当者などの次に、来年訪れるゲルニカ・重慶・ドレスデンの全てに同行しコーディネートする安斎育郎さんの挨拶があった。
この人の名前を今回初めて知ったが、今は立命館平和ミュージアム名誉館長を務める1940年生まれで、80歳に近い方だ。
冒頭、このわずか数分の挨拶をするために京都から新幹線に乗って遥々やってきましたと笑わせた。
専門は原子力なので、理系の人なのだ。
INMP(世界平和博物館会議)にも深く関わっている。
数分の挨拶で話が上手い人だとわかる。
立命館大学はかつて軍国主義を掲げていた…についても詳しく聞きたかったが、何せ数分の挨拶なので。
さて本題は都留文科大学教授の伊香俊哉氏(1960年生まれ)の「国際人道法(戦時国際法)違反としての東京大空襲」だが、8ページにわたるレジメを準備してくださり、それに忠実に話を進めていくのだが、聴衆を見るでもなく、黙々と話を進めるなか、私は何度も居眠りしてしまった。
とても生真面目な先生なのだろうが、講演者には向いていない人だと感じた。
※ 3時からは資料センターから北側の菊川方面と南側の東陽町方面の2班に分かれ、フィールドワークに出発、私は帰りの駅のことを考え菊川方面に参加した。
左は猿江神社、この斜向かいの重願寺にはB29のプロペラ、焼夷弾筒などが展示されている。猿江公園の中には13242体の遺体が仮埋葬されたという。右は墨田区菊川の夢違え地蔵尊のある公園で、この地の殉難者は3000名と言われている。
予定通り4:30に終了し、菊川駅から京王線に連結している電車に乗った。
※ 東京はオリンピックが近いせいだろうか工事中の地下鉄駅が多く、表示を注意深く見る必要があった。
まず今回最初に驚いたのは、飛行機が着陸してタラップを降り、到着ロビーへはバスで移動したのだが、いつものように手すりを持って階段を下りるのが特に怖く感じた。一段ずつ降りるように気をつけた。
駅でもどこでも下り階段は必ず端っこの手すりを持つようにしているが、どこの構内の階段だったか途中で座り込んでしまったことが一度あった。
歩行距離の記録を見ると、1日3.5km 2日9.7km 3日13.1km 4日8.2km 5日3.7kmと私にしては画期的な距離を歩いている。
なか3日間は娘と一緒だったので頑張れたのもあるだろう。
これで自信がついたかと言えばNOで、回復への一歩という程度だ。
娘のアパートでの朝食で作ってくれた温野菜(3種類の野菜とウインナーを蒸らし炒めしながら水を少しいれスープの素1個で炊いたもの、娘は野菜スープと言っていたが)が美味しく食べられて、こちらに帰ってからも食べている。
旅の大切な友は紙パンツとスマホで、これらが無ければもう旅はできない。
この記録を書きながら旅を反芻していた。
山福康政と上野英信との交流、安斎育郎氏の生き方など。
帰宅してすぐ、薪ストーブに火を入れた。(11月5日)
朝の仕事が増えて忙しくなった。
そうそう忘れていた。
帰りの羽田発は47搭乗口だったが、46〜48は新たに設置した搭乗口でバスで移動して別な建物に移る必要があった。
なので、ラウンジを利用するゆとりもなかった。
羽田も利用するたびに変化している。