与那覇潤著「日本人はなぜ存在するか」その3

※ この本は著者が大学教員時代、教養科目「日本の歴史・文化」の授業の講義録だ。

キーワードは「再帰性」ということ。
わかりにくいが、「認識と現実との間でループ現象が生じること」を意味する。

なんども出てくる言葉で、例えば『《神は再帰的だ》と喝破したニーチェ』と題して、こう書いている。ーーニーチェの「神は死んだ」という言葉はすなわち「神もまた再帰的な存在にすぎない(ことを私たちは知ってしまった)」という意味なのだ。
何か不幸な体験をしたとき、それを「最近、俺は調子に乗りすぎていたから、神様の罰が当たったんだ」と認識するかぎりで、神は再帰的なかたちで存在する。なぜ私たちの社会は、神なる存在を再帰的に作り出してきたのか。それは「悪いことをすると、神さまの罰が当たるよ」ということにしておけば、社会の秩序を維持するのに便利だから。だとすれば、本来は神こそが人間にとっての手段、道具に過ぎない。
しかし人間は愚かにも、自分たちが道具として再帰的に作り出したにすぎない存在を、あたかも本当の実在物のように崇め、自分が作り出した当のものによって支配されている。なんとみじめなことか。ーー

次に『《人間の終焉》を予言したフーコー』の項では、ーー近代の西洋人は「人間」を神の座に祀り上げることで、実質的に同じことをやっていると主張した。神が再帰的な存在であったのと同様、人間もまた再帰的な存在にすぎない、とフーコーは考えた。1968年、世界中に学生の反乱が広がる中で、フーコーの書物は彼らのバイブルになった。フランスの五月革命では学生たちが資本主義に反抗し、一方でチェコスロバキアではプラハの春で、社会主義に抵抗する市民運動が起きた。
資本主義にせよ社会主義にせよ、人間を解放し豊かにするなどと自称してはいるが、そんなものはしょせん物語にすぎないじゃないか。嘘っぱちはもうやめてくれ。ーー

ーーフーコーは同性愛者で「あなたの欲求は『人間としての自然な欲求』(異性愛)とは違う」というレッテルを貼られた。
私たちは人間性を尊重するといいながら、その実、再帰的に作り上げた「人間」イメージに合致する人々だけを依怙贔屓し、それ以外の人たちを「人間らしくない」として貶めていないか、というのが、フーコーのモチーフだった。ーーと与那覇は述べている。