輿那覇潤著「日本人はなぜ存在するか」その2

※ 第1章 “「日本人」は存在するか”の中に、「日本人は集団主義的」は正しいか?という命題がある。
この問いで、私には必ず思い出す映画がある。
1965年日本公開された「その男ゾルバ」だ。

イギリス人のバジルという男が、父親の遺産である炭鉱を継ぐためにギリシャにやってくる。
そこでゾルバというギリシャ人に出会い、意気投合する。

バジルは美しい未亡人と出会い愛し合うようになる。
未亡人はそれまで誰とも打ち解けず、健気に生きていた。
ただ、有力者の息子に言い寄られていたが、決して受け入れることはなかった。
未亡人とバジルの関係を知った息子は悲観し、自殺する。

有力者と村の人々は、バジルとゾルバの抵抗の甲斐もなく、未亡人の喉を切って殺す。

このシーンを見たとき、集団主義は日本人の特権ではないとわかった。


この映画ではもう一つ、ゾルバと懇ろになる年増のホテル経営者とゾルバの関係が描かれる。
ゾルバは彼女が死の床についても最後まで世話を続ける。
ギリシャのこの地域では、死者の持ち物は好きに略奪して良いという了解がある。
死が間近に迫った彼女の周りで、物取り達が今か今かと死を待ち、こときれると同時に略奪が始まる。
そんな状況の中、ゾルバはきっぱりと去っていく。

つまり、人間の関係は生きている時が全てだよ。
生きているときに愛情の全てを注ぐんだよ。
というゾルバの姿勢が強く響いてきた。
これは「集団主義」とは無関係だが、この映画のふたつめの印象として忘れられない。