辺見庸

昨夜ETV特集をみた。
右半身にマヒが残り、群衆の中を懸命に歩き、リハビリのために階段を何度も上がり降りするシーンが、話の合間に度々挿しこまれ、編集にけれんみを感じた。
そのシーンをそんなに何度も写す時間があれば、彼の主張を聞きたい。
彼自身もそれを嗅ぎとり、言葉に出していた。

昨年10月、大阪での彼の講演を聞いた友人から、ポイントを聞いていたので、ぜひ見ようと思っていた。

夢野久作アルベール・カミュが紹介された。
夢野は宮沢賢治とほぼ同時代を生きた。
長男の書架から彼の本を取り出し、「いなか、の、じけん 抄」「猟奇歌」「杉山茂丸」を読んでみた。
すると、賢治の「注文の多い料理店」を思い出した。底流に共通な雰囲気を感じるのだ。
それは時代の雰囲気なのかもしれない。
1920年代から1930年代をなぞらなくてはいけないと述べていた。

カミュは先の二人より少し後の人だが、彼の書いた「ペスト」も、それはペストを描いているのではなく、時代を描いているのだと述べる。
今、マスメディアが資本の潤滑油になり、コーディングがうまい時代で、ペストでさえコーディングされ日常化していく。
『絶望に慣れることは、絶望そのものよりも悪いのである』といい、我々の無意識の荒みを摘出しなくてはいけないと述べる。

また、時は金なりという即時性が追求されるあまり、ヒトは生体としてそれを受け入れられなくなっている。反復や思索という迂遠な時間・空間が必要なのだという。

また読むべき本ができた。