「老子までの道」加島祥三著(朝日文庫)

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★ 著者60代で、心を打たれた印象をつづった21の文章からなっている。
 
――赤トンボの焼きもち――の章が面白かったので部分を抜粋する。
 
ベランダに座っていた時のことです。 ひとつがいの赤トンボが私の頭上を飛びすぎてゆき、それを目で追っていると、軒先にとまっていた別のトンボが、すっと直角に空間をよぎって、つがいのトンボにぶつかったのです。 つがいのトンボはぐらっとゆすれ、離れかけたが、体勢をもち直して同じ方向に飛びつづけ、ぶつかったほうの独身トンボはその後を追って、もう一度うしろからチョッカイを出し、それからあきらめたのか、竹の垣の外へ消えてゆきました。 つがいの夫婦トンボは何もなかったかのように、段丘の向こうへ飛び去った。
ほんの一瞬の光景でしたが、私はひどく驚いたのでした。 
なぜ驚いたかというと、トンボの世界にも焼きもちや嫉妬の感情があるのだ、と知ったからです。
そんな感情は人間界だけのことだ、と思い込んできた私は、このトンボの珍景に驚いたわけです。・・・
私は人間関係に起こる嫉妬や羨みの感情を、軽蔑すべき、卑しむべきものと思ってきました。
というのも自分のなかにこの感情がしつっこく根を張っていたからで、私はそれを嫌い軽蔑することで、この感情を圧し殺そうとしてきました。
他の人が嫉妬の情を私に見せた時も、その人を嫌った。 しかしいま、私は、嫉妬や羨みが、無心そうに舞い飛ぶ赤トンボにもあると知り、そうだ、人間の嫉妬心もまた自然の感情なのだ、と知ったわけです。
今まではいちばん嫌な下劣な感情と思っていたものが、あらゆる生物のなかに働いている。
それは命にたいする愛の感情と同じように、とても基本的感情なのだ、と感じ直したのです。
それにしても、人間の抱く嫉妬心は、トンボに比べて実にくどくて執念ぶかくて有害になりがちだ。
それに対してあの独身トンボの行動は、なんとまあ軽くて無害なものであることか。
 
トンボに縄張り意識があるのかどうか知らないが、わたしがこの光景を見たなら、「嫉妬心」の解釈はできなかっただろう。