辺見庸の小津観

★ 辺見庸ブログ2015.3.27付を読んで違和感を感じている。

その一部を紹介する。
――『麦秋』。小津はおそるべき加害と耐えがたい恥辱の記憶を時間をかけてついに無化した、傑出した監督であり、記憶の超A級戦犯である。記憶消しのゾンダーコマンドレス部隊長である。幾百万の人殺しと強姦犯たちが小津にたすけられたことか。なんらの良心の呵責もなく。記憶の墓をあばけ!――

麦秋』は婚期が遅れている娘が、傍目には良縁と思われる相手を蹴って、戦死した兄の友人で妻を亡くし幼い子を連れた男を夫に選ぶ話だ。

この作品が発表されたのは1951年で敗戦後6年。
舞台はブルジョワ階級の家庭で、娘の父は学者、兄は医者。 辺見はおそらく戦後間もない時期に、静かな家庭の娘の結婚を巡る日常を描くことに不満を抱いているのだろう。
しかしそれは違うと思う。 娘には戦死した兄に対する想いがあり、それが自ら結婚相手を選ぶことに繋がっている。

戦地で多くの人を殺し強姦した人も、戦後6年経ち、たとえば黙々と草抜きをする生活や、金魚に餌をやる日常の中に於いても、戦地の経験を消し去ることができる人は多くないと思われる。

辺見庸ブログは愛読しているが、この小津観には同意できない。