「岩佐美代子」さんを知る

★ 長い間日経新聞を読んできたが、来月から毎日新聞に替えてみることにした。
一応1年間は読んでみようと思っている。
今はサービス期間ということで、無料で配達されている。

本日4月20日付けに、鶴見大学名誉教授岩佐美代子さん(90)の紹介があった。
岩佐さんの祖父は愛媛宇和島出身の法学者穂積陳重(のぶしげ)で、父重遠(しげとお)も民法学者だった。

18歳のとき、京極派の代表的歌人光厳院(後醍醐天皇の皇太子、40歳で出家し51歳没)の歌
――ともし火にわれもむかはず 燈(ともしび)もわれにむかはず おのがまにまに――
に出会い、国文学の研究を志したという。
40代半ばで夫に先立たれた後も、研究が救いで、悲しみからの逃げ場だった。
今は夫が私を解放してくれたと思っている。好きな時に寝て、起きて、原稿書きに集中する。こんなに楽しく、幸せな生活はない。

先に紹介した歌は、岩佐さんの現代語訳によると、――ともしびに私は向かっていないし、ともしびも私にむかっていない。それぞれにあるだけだ。――
ネットで光厳院を検索してみると、後醍醐天皇の皇太子といっても、親子でも兄弟でもなく、後醍醐は南朝光厳北朝と対立しあう系統にあり、当時は二つの系統から順番に天皇(皇太子)を選んでいた。
光厳後醍醐天皇隠岐に流されたのを受けて19歳で天皇になるが、2年後には後醍醐が鎌倉幕府を倒して復活したために光厳は廃位される。
そのまた3年後には足利尊氏が後醍醐を退け室町幕府を開くと、光厳の弟が光明天皇として立てられ、光厳は後見として院政を開始する。
平和の時代も十余年で終わり、光厳北朝南朝に囚われの身となる。
時に光厳は40歳で出家する。

ともしびと向かい合う孤独な姿は、700年前の作品であるが、現代でも共感できると岩佐さんは書いている。
祖父陳重の故郷宇和島には「穂積橋」という橋が残っているという。
陳重の――老生は銅像にて仰がるるより 万人の渡らるる橋となりたし――の言葉を尊重したということだ。

宇和島を訪れたら、穂積橋を渡ってみたい。

大切なことを書き忘れていた。
岩佐さんが天皇について書いている。
――今の天皇陛下がアジア各地の戦跡も巡られ、頭を垂れていらっしゃいます。ご立派なことです。ただ、これは昭和天皇がなさるべきことでした。「天皇陛下のため」と、多くの人が戦い死んでいったのは間違いないことです。昭和天皇は退位すべきだったと思っています。――
本島等長崎市長が銃撃されたのは1990年1月18日だった。26年前だが、岩佐さんが今新聞にこう書けるのは日本社会が進歩しているとみてよいのだろうか?