「悩む力」「続悩む力」 姜尚中著

 
イメージ 1 ★ 姜尚中氏の長男が若くして亡くなった(2009年6月)というのは知っていたが、その背景も知りたくてこの本を読んでみた。
今年の1月末に、近所に住む次男の友人が数ヶ月前に亡くなっていたということを知り、若者の死について敏感になっていたこともある。
 
「悩む・・」のほうは2008年、「続・・・」は4年後の2012年に出版されている。
 
これらの本には私生活の背景などは全く書かれていなかった。
東京新聞2013.5.11号によると、最近集英社から出版されたばかりの小説「心」に片鱗がうかがえそうなので、また読んでみることにする。
 
狙いは外れたが、収穫はあった。
特に、3.11以後に書かれた「続・・・」は印象深いところが何ヵ所かあった。
 
夏目漱石マックス・ウェーバーウィリアム・ジェイムズ、V・E・フランクルらが4人ともに持つ「人間とは何か」という共通の根本的テーマ。
 
※1968年の学生たちの反乱について。
学生たちは格差や失業に憤っていたわけではない。彼らは親に学費を出してもらって学生生活をエンジョイしている、今から見れば結構な身分の学生たちだった。
下半身はアメリカの文化にどっぷりつかりながら、首から上だけ革命を叫んでいる学生たち。やがて彼らは潮が引くように去り、批判してやまなかった社会に生き場所を見つけて散っていった。
 
ウィリアム・ジェイムズは19c末、「多くの人々にあっては、『科学』はまぎれもなく宗教の位置を占めつつある」と指摘した。
つまり、科学が神のような存在になっているということだ。
この言葉は、100年後のわれわれには、もはや意識せざる日常の前提となっていた。
しかし、原発事故によって、それが一気に覆されてしまった。
科学への信頼がなくなっても、未来への希望はなくならないはずなのに、私たちには未来が明るく輝くようには見えなくなりつつある。
そのくらい、私たちにとって科学というものが、限りなく宗教に近いものになっていた。
これに比べたら、敗戦を知らされた1945年8月15日でさえ、国民の多くは、これほどの虚無には陥らなかったのではないか。
 
※二度生まれ(twice born)
人は生死の境をさまようほど心を病み抜いたときに、はじめてそれを突き抜けた境涯に達し、世界の新しい価値とか、それまでとは異なる人生の意味といったものをつかむことができる。
 
※貨幣自体が「マネー」と呼ばれる金融商品として世界中を駆けめぐることになったのは、1973年、第四次中東戦争で石油価格が高騰し、世界の主な通貨が変動相場制に移ったとき以降といってよい。
それ以後、資本が自由化し、さまざまな株式投資ヘッジファンドと呼ばれるグローバルマネーのゲームが展開され、世界経済の動向はこれに大きく左右されるようになった。
もともとは商品になりえなかったはずの「人間」「自然」「貨幣」の擬制的な商品化が、極限まで進み、極限の資本主義システムのなかで原発が作られ、そこに震災が起こり、原発事故の惨事につながった。
 
※E・F・シューマッハーの予言
いちばん大きい廃棄物といえば、いうまでもなく、耐用年数を過ぎた原子炉である。
原子炉を使える期間が二十年か三十年かといった些末の経済問題について議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性を持つ問題はだれも論じていない。
その問題とは、原子炉が壊すことも動かすこともできず、そのまま、たぶん何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならないこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を漏らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである。
どんどんと増えていく、このような悪魔の工場の数と場所を、人は考えてもみない。
もちろんのこと、地震は起こらないものと想定されており、戦争も内乱も、今日アメリカの諸都市に蔓延している騒擾も、予想の中には入っていない。
使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑として残り、人類の未来には脅威も動揺もまったくないか、かりにそれがあったとしても、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介する必要はないという考えの愚かさを記録し続けるのである。
 
※今の私たちの市場経済は、慢性的に失業を作り出すことによって作動している。
もっとはっきりいえば、市場経済は、社会が崩壊しない程度にまで失業率を高めるほうが富が極大化するといえるようなメカニズムになっている。そこまで露骨に私たちの資本主義は変容し、逸脱してしまった。
 
※それが最後の一日でも、幸せは必ずつかみ取れる。
よい未来を求めていくというよりも、よい過去を積み重ねていく気持ちで生きていくこと。
恐れる必要もひるむ必要もなく、ありのままの身の丈でよいということ。
いまが苦しくてたまらなくて、つまらない人生だと思えても、いよいよ人生が終焉する一秒前まで、よい人生に転じる可能性があるがあること。
何もアクティブなことができなくても、何も創造できなくても、いまそこにいるだけで、あなたは十分あなたらしいということ。
だからくたくたになるまで自分を探す必要などないということ。そして、心が命じることを淡々と積み重ねてやっていれば、あとで振り返ったときには、おのずと十分に幸福な人生が達成されているはずだということ。
 
この最後の過去を積み重ねて・・・という部分は、鶴見俊輔のいう 「残像との対話を繰り返して、その上に自分の思想を築いていくことが大切」 との主張と重なると思った。
鶴見の言う残像とは自分自身に深く刻まれた記憶や風景をさす。