「上野英信と沖縄」ー眉の清(ちゅ)らさぞ神の島ー 追悼文集刊行会編

上野英信が1987年に亡くなり(享年64)その1年後、ニライ社からこの追悼文集が出た。

60名余りの人が追悼文を寄せているが、中でも色川大吉のそれに二つの点で惹きつけられた。
その一つ目は、同世代の谷川雁上野英信吉本隆明の3人を並べて批評しているところ。引用すると、
ーー先駆した谷川雁は、1965年に筑豊を見限って上京した。その後の彼の世捨て人風の足跡に私は興味はない。吉本は、文芸の枠の中で善戦をつづけるが、晩年、若者層にすり寄る見苦しい自己顕示欲をさらした。所詮、彼はジャーナリズムから離れられる人ではなかった。結局、三人の中、もっとも地味だった上野英信が、現在のところ、もっとも光る存在となった。ーー

谷川については私にはわからないが、吉本については『アンアン』1984年9月21日号に掲載された文章に端を発する埴谷雄高との「コム・デ・ギャルソン論争」をさしていると思われる。

私が吉本隆明について、もっとも罪深さを感じるのは原発の旗振り役に成り下がった点だ。
また、kaze no koさんのブログ http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/12932875.html
の『日本的反知性主義』で斎藤環氏が指摘しているように、
ーー日本人が深層で固守しているものは家内安全・商売繁盛という現世利益欲求及びそのためのノウハウやエトスであり、その日本人が表面だけで追随するのは世間の風向きであり、「空気」なのだ。ーー

この引用部分と吉本隆明の思想との近さを強く感じる。
彼の信奉者は、糸井重里高橋源一郎遠藤ミチロウらがいるが、マイルドヤンキーに当てはまると私には思える。
話を戻すと、色川大吉の指摘していることもそういうことだと思われる。

さて二つ目は、『苦界浄土』の出版をお膳立てし、石牟礼道子を世に送り出したのは上野英信だったという点だ。
上野英信色川大吉石牟礼道子をつなぎ、色川大吉水俣をつなぎ、不知火海総合学術調査団の結成に至る。

そしてまた常に上野英信に寄り添い、その仕事を支え続けたジャーナリスト三木健の偉大さも知った。
彼は昨年秋、福岡で開かれた上野英信展での基調講演を担ったが、この人がいなければ「眉屋私記」も成らなかった。