「キジバトの記」上野晴子著 裏山書房
※ 晴子は夫英信の死後2年経った1989年、結婚後ずっと夫に禁じられていた短歌や文章を書くことを再開した。
この本は1989年から95年にかけて晴子が書き綴ったエッセイ49編が収められている。
晴子の死後一人息子の朱(あかし)氏が遺稿集として出版した。
上野晴子は1926年生まれ、私の母と同い年だ。
20代前半結婚し破綻を経験し、20代終わりに英信と出会い1956年再婚した。
英信もまた京都大学時代の恋人や郷里の山口には父親が選んだ婚約者がおり、多くの女性遍歴があった。
その履歴には、原爆体験・捨てた郷里や家族・侵略の地満州の建国大学・前近代の古風な女性観など多くの闇がある。
特に英信の晴子に対する女房教育に、晴子はほとほと苦労している。
・彼は私が今まで自分の内にたくわえてきたものを、ことごとく無価値なものとして打ち砕いてしまう。
「私のどこかを認めてくれたはずなのに」と思うと口惜しくて涙が出た。
・少しでも何かしたいと思う気持ちは、雑草の芽のようにいつも摘まれてしまった。
・あなた(晴子)は母親が父親に仕える姿を見ていないからだめなのだ。
そして晴子は自分の心を制御して、夫を師と見做すように努めた。
森崎は前夫との間の幼子2人を連れ谷川と同居生活が始まった。
跋文は土呂久ヒ素公害事件の記録者川原一之氏が書いている。
私はこの人の名を初めて知ったが、「土呂久羅漢」という著書がある。
英信は「眉屋私記」の続編のために用意していたお金を川原氏の仕事に役立ててほしいと頼んだが、川原氏は約束の「土呂久羅漢」を仕上げ、お金は手をつけずに晴子の元に返された。
晴子は英信との30年間の結婚生活を過ごし、英信を見送って10年後、70歳と8ヶ月の命を終えた。
英信の禁から解放されて6年間、よくぞ記録を残してくれた。
英信の追悼集とあわせて読むと、彼の全体像も深く理解できる。